おぐら庵@濃厚な暮らし

いつか縁側で暮らしたい大学四年生

なるほど、これが希死念慮

自論だけど中途半端って本当に苦しいと思う。160cm 100kgより160cm 60kgの方が、毎回赤点取る人より場合によって赤点取る人の方が苦しい。私はそう思う。希望のあるなしで、手に入らなかった時の悔しさが段違いだ。落ち切った場合は、「もし落ちたなら」という不安と焦りと心配は確実に存在しない。あるとないを比べたらある方がしんどい。

もちろん別の不安やその他があるだろうし、落ち切った方が辛くないと言っているのではない。それはそれで辛いのだ。誤解はしないでほしい。

少し前、卒制が上手くいかなくて人生で二番目くらいに気落ちしてた。卒業後の進路が決まってるのに、卒業ができない可能性があるとか心底最悪の状況だった。その間中「死にたいな〜」と思ってたけど、鬱病の人とは違って、まだマシだし救いようがあると思ってた。マシというか落ちきってないから平気だろって。

だからこそ、逃げ場のないダメ人間なんだなと思っていたんだけど、どうやらこれが希死念慮だったらしい。

前に【死ぬって言葉を軽く使ってるから生きてんのかもしれない - おぐら庵@濃厚な暮らし】って記事を出してるんだけど、鬱病の人が言う「死にたい」もこんな感じらしい。全員が全員同じ感覚な訳では無いから、そこは間違えないでくれ。

死にたいと思っても、進んで死にたいわけじゃなくて「苦しくないようにこの辛い現実からいなくなれたらいいな」という希望的観測というか悲観的言動なわけで。今まで自分のことを、鬱病ではない世間一般における「正常カテゴリ」に分類されるはずと思っていたから苦しくて仕方なかった。烏滸がましいかもしれない。

理解して欲しいわけじゃない。寄り添って欲しい訳でもない。ただどうにかして現実を打開する術を手に入れたい。でも私が理性でどれだけ考えていても、近づいてきた人間全部を感情で弾いてしまう。周りは何一つ悪くないっていう考えが、また自己嫌悪の理由になってしまう。周りの言動一つ一つが心をえぐるんですよ。「〇〇なのは分かってたよね?」とかキツイ。分かってるからこんなに苦しいんだが?? と思ってる。それすら分からなかったらこんなに苦しくなかったのに。

例えるなら自分が60kgで体型がぽよぽよしていたとしても、服を着たら周りは気づかない。だから服を脱いだ時に、この体を見られたらどう思われるだろうとか、今太ってると思われたかなと不安になる。

最初からずっと赤点だったら今回も赤点だよなと思えるけど、ギリギリで赤点回避してたら「今回赤点かな!? 違うよな!」って悩むんだよ。

期待させないで欲しい。初めから何もわからないくらい頭が悪かったら、バカにされても気づけない人間だったらこんな苦しくないのに。お前らの持論なんて知ったことか。私は私の意見に賛同して、緩やかに真綿で首を絞めて痛みなく海に解けてしまいたい。


蛇足。
大きな声では言えないけど、死ぬための工程と面倒くささを天秤にかけた時、面倒くさいの方が重いだけ。だから死んでないってところはある。