おぐら庵@濃厚な暮らし

いつか縁側で暮らしたい大学四年生

一生過去を羨んで生きるんだろうか

最近googleの保存容量が上限突破したので、兼ねてより考えていたgoogleフォトの整理をした。 カメラロールを遡れば、当時の推しの写真かTwitterで漁った画像ばかり。友人と撮った写真なんて数えるほど。

今も推しのことは好きだけど、学生時代と比べると熱量が明らかに減った。別の界隈に移ったので、積極的に追うことをしていない。なんであんなにも必死になっていたんだろう。持ちうる金の全てを費やして、行けなかったライブを悔やんで、コメントを読まれて一喜一憂する。Twitterを駆使してグッズを交換したこともあった。なら、オタクを取ったら何が残るんだろう。後ろを振り返ったら何も残らないってこういうことなのかも。

小中のことは思い出したくもないくらい嫌悪していた。それにスマホ所持の関係で高校からのデータしか蓄積されていない。 だからこそ、最も鮮やかだった高校時代の思い出が何もないことで、寂しい気持ちになった。自分ってこんなにも悲しい人間だったのだな、という気持ちだ。

結局見返すことのない推しの写真は消したし、僅かに残る高校の板書用写真も消した。もう使わないから。

オタクである自分を嫌悪しているとか、なかったことにしたいわけではない。でも、振り返った時に何も残らないと考えると、人生を無駄にして生きてきたのかもと考えてしまう。 推しにわーきゃー騒いでいたという情報があるだけで、それ以外の自分のことを思い出せない。このまま一生高校時代に囚われるのだろうか。

おセンチな気分なので悲しい苦しい辛いと言っているけれど、おそらく卒業制作がうまくいっていないから。(また別で話す)

大学入学の頃に気づいていたらこんな人間にはならなかったのかな。理由を漁っても意味がないことを知っているし、ネガティブは人を不幸にするから誰にこの話をするつもりでもない。だから、こっそりネットの片隅に流すくらいのことは許してくれ。

今からでも自分を(作品などの生み出される副産物ではなく)を大事にしたいと思う。